昭和59年1月23日 月例祭
私の部屋の入り口に、大きな煤竹を利用して柱掛けがお供えを頂いております。その柱掛けには、私が書きました『梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせたい』ひらがなで書いてあります。それを毎日来てくれます孫たちが覚えて、小さいのまで訳がわからんのにそれを申します。『梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせたい』
皆さんはこの御理解を何回も頂かれたことだと思います。まぁいうなら人間の願いとでも申しましょうか、(ないがいというか?)夢のような願いということになるかも、ところがお道の信心を持ってすると、それが可能である。頂けるのである。そういうおかげが受けられる為に、梅の香りを放つような、梅の花の信心を内容としなければならない。
天の心と言われる、いわゆる無条件の御用というか、奉仕。美しい心、または潔い心、そういう心をもって、いわゆる桜の花の美しさやら、潔さやらというものが、信心の内容になってこなければならない。
合楽で言われる、いわゆる黙って治めるとか、成り行きをいよいよ尊い、大切にさせてもらうといったような生き方こそ、いうならば柳の信心であろう。風に逆らわない。どんな場合であっても吹くにまかせる、揺れるにまかせて、そこを神ながらに黙って受けて行くといったような信心内容が出来たら、私はそういう足ろうた、夢に思うておった、願っておったようなことが現実に頂けれる。現れてくるおかげの世界に住むことができる。
合楽では、そうしたおかげの世界を、皆さんに見てもらったり、きいてもらったりしておるのですから、合楽にご縁のある一人ひとりの皆さんが、そういう足ろうたおかげを受けて頂きたいとおもうのでございます。
例えば、こうしてお月次祭にいたしましても、これは今始まったことではありません。椛目の時代から、それはそれなりの、なんとはなしに本当に桜の花のような、一つの豪華さというか、もう初めから、その時その時のそれに応じてからではありますけれども、足ろうたおかげを頂いてまいっております。
例えばお月次祭一つにいたしましても、御神前にはそれこそ、何一品、野菜一本買うわけではございませんけれども、海山川野の種々の物が、甘なからなを取り揃えて御神前にうず高く、いうならあふれるようにお供えをさせて頂いて、お広前にはいっぱいのご信者がご参拝になる。例えば、楽のしらべも男女数数名の樂人の方たちがそれにはべっての御用である。
御神前は賑やかじゃったけれども、お広前のほうが寂しかったと、今日は樂がなかったとかというようなことが、ただの一度もございませんでしたですね。私がおかげをうけておる様子、合楽でおかげを受けて居る様子というものを皆さんがご覧になって、足ろうたおかげというのはこういうおかげであろうかと。
お広前だけではありません。合楽の色々な御用に使われる部屋部屋、いうならばここからこうまた新館、そして客殿、大接間、共励殿。と、新館の方にまいりますと、会議室から食堂、事務室、二階は広々とした祭場が設けられ、広々と祭場が出来たけれども、ご参拝は少しばっかりじゃったというようなことがない。
もう一番始めから、あの祭場を使わせて頂くようになった、その時点からやっぱりご大祭ともなると、あそこ一杯のご信者が集まって、それこそ、私もたくさんなご教会を知っておりますけれども、こういうまぁ、いうなら華麗なというか豪華さというか、を感じるようなお祭りを拝んだことがない。
ご信心だけではない、もう一事が万事に、いうなら足ろうたおかげというものが、私は『梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせた』私は様子であり、状態であると思うのです。そこでなら、様々な願いは誰でも持っておりますけれども、足ろうたおかげ。
ある教会ではお年寄りばっかり多いとか、御婦人ばっかりの教会とかと色々ありますよやっぱり。ところが合楽の場合は、お年寄りから○少の子どもたちに至るまで。または、男性の方だけではない、婦人の方たちも、合楽教会に見える様々な信心研修の会のあの模様からみてもです、そこに一つの足ろうたものを感じます。
だから、それがお教会の上だけではなくて、銘々の家庭の上にも、そういうおかげをどうでも頂いてほしい。かたちんばを踏んだおかげではなくて、家族が勢を揃えて、一切を合楽理念に基づいた、いうならば生き方が家庭の中にもできるような、一つおかげを頂いて、桜の花のような、華やかな豪華なおかげを頂いてもらいたい。
為には、その信心内容として、梅の花の、いわゆる信心辛抱の徳を積んでいかなければならない。それにはいつも柳が風に逆らわないように、自然の働きそのものを合掌して受けていけれる純粋な信心をいよいよ極めて、自分のものに、自分の家庭の信条にして頂きたいと思います。
今も、申しますように何が何やらわからん小さい、三つ四つの子供たちが、今の御教を暗記してます。『梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせたい』と言ってます。皆さんもそこへんのところは、十分に知り分かり、その信心の内容はこうだということが段々分かってこられておると思うのですが、それはいよいよ身につけていかなければならない。
自分の住んでおるおかげの世界というものを、勿体ないおかげを受けておるが、このへんのところが、どうもかたちんばを踏んで、主人は熱心だけれども、家内が熱心ではないとか、子供がついて来ないとか、そこんところに、自分の信心のいうなら梅とか桜とか柳の信心のどれから、どのような風にしてか欠けておるんだと、みんなが悟らせてもらって、その欠けたところを補うていけれる修行をいよいよさせて頂かなければなりません。
今日も、孫たちが訳が分からずなりに、それを言っておるのを思うて、まぁ子供ん時からこうやって教えられていく。こういうことを、それを暗証することやらは見やすいけれども、それを見に付けて行くということが、お互いがやっぱりその気にならなければ頂けないのです。
分かっちゃおるけれども、出来ないといったようなことではなくて、私はそういう、合楽で言われる信心の一つの信条というものを身につけ、家の信条ともしていけれるような精進努力がいるのではないか。
潔さが欠けておる、無条件のいうならば信心、それは天の心を心とするような生き方。また、どのような場合であっても、黙って治めるという生き方の素晴らしい…。うち向かう者には負けて時節に任せとおっしゃるが、黙ってそれこそ、しっかり信心の帯をさせて頂きながらおかげを頂いてまいりますと、なるほど神様のお心が分かるようなおかげに展開してくる。どんな場合でも、どんな強い風が吹いてきても、それに逆らわない。成り行きをいよいよ尊ばせて頂く生き方をもっともっと、頂いて行く精進を、日日の信心生活の中に、頂いていかなければ。
どうぞ、今日も一日、ご理念に基づく生き方をさせてくださいという願いをもって、おかげを蒙っていかなければならない。それはどうあるかということを皆さんに問うたら一人ひとりが、それこそ素晴らしいお答えをなさるだろうと思います。知っておられるのですから。
だから、その知っておるだけではない、いわゆる子供が暗証しておるように、ただ暗証しておる、知っておるというだけではなくて、それが身につく。なるほど合楽の信心はと問われたら、内容が、今申しますような、梅とか桜とか柳の信心が足ろうていく、その精進である。
ところが、その知っておるだけ、どこからかおかげが漏れておるとか、頂けないとかというならば、その頂き方をもっと切実に日日の生活の中に頂き、表すことの不精進さというものを悟らせてもらわなきゃならん。
それを本気でおかげを頂くと、そこに実証が生まれてくる。なるほどという。そのおかげにやれやれと腰掛けることなしに、それをもう限りなく、限りなくそれをおし頂いて広めていく、進展していくおかげ。おかげも又それに伴うて進展してくるというおかげ。そのことを、私は丁度うちの孫たちが覚えておるように、皆さんもみんな覚えておられる、知っておられる。ご理念ということも、どういうことだというは分かっておられる。
それが、おかげの進展に伴うていかないところに、何が原因なのだろうかと。どういうところに、それが折角、血になり肉になりしよるとが、また元の木阿弥になってしまうのであろうか。そんなことを、今日は私思わせて頂いておりましたら、神様から、蛇と蛙となめくじを頂いたんです。
皆さんご承知でしょうか、この三つの物が懐におったら、これは油断をしないということだそうですね。蛙はいつも蛇に狙われておる。油断を。なめくじはいつも蛙に狙われておる。パクっと一口やられたらもうおしまいである。なかなかだから、油断が出来ん。蛇はなめくじが一番苦手だそうですね。
ですからこの三つを、家を建てる時にそこにいけておくと、家が繁盛、衰微することがないといったようなことを昔聞いたことがあるが、そのことを思い出させて頂いて、そして私どもが油断はしておらんようだけれども、油断をしておるということでございます。梅の信心も、桜の信心も柳の信心も、そこにいわば合楽的おかげというか、足ろうたおかげという、そういうおかげが受けられることも知ってもおるし、また小刻みにいうなら、その体験もさせて頂いておるんだけれども、それがいよいよ血に肉になって自分のものになってしまってないというところは、私はその油断とは思っていないけれども、油断があるのではなかろうかと。
そこで私は又神様にお願いをさせて頂いた。油断をしてはならんということは、勝って兜の緒を締めよといったようなこともやっぱり、油断せんようにという風に、けどもいつ敵がせめてくるやら分からんといったような、戦々恐々としたその張り切り方ではなくてです、信心させて頂く者としては、ただ油断とはこう、弓のようにしておることではなくて、いつも私どもの心の中に、求めて止まない心というものが、この頃薄らいで来ておるのじゃないか、無くなってきておるのではないかと先ず思うてみなきゃいけません。
これが油断の始まりです。信心は一生が修行と仰せられます。限りない、いわゆるおかげが進展してくる為には、限りない信心の精進が求められます。お参りをさせて頂いたら、なにかを自分の物にさせて頂かずにはおかん。という熱心なご参拝と、いわゆる御教を拝聴する構えというものがそこに出来ていかなければ。いつも自分は求めに求めておるという時、あなたは油断のない信心をしておるということに成るのじゃないでしょうか。
もう一つ、その見極め方の中に、この頃あんまり有り難く無くなって来た。本当に何をみても、有り難い有り難い。という心が募っておったのが、いつの頃からか有り難いものが心から消えていっておる。これはもう、一生が、一年一年有難うなっていくと仰せられる、その有り難いというものがつのっていっておるような信心でなかれなければならないということ。
いつも求めて止まない求道の心の精進がなされておるかどうか。私は信心の油断とはそれだと思う。それが心の中に生き生きと感じられるような生き方を身につけていきながら、ここは梅の信心で、心は(ここは)桜の信心で、ここは柳の心で、というように私は精進の目当てをそこにおいて、おかげを頂いてまいりましたら、信心もいよいよ有り難い、しかも楽しい、いつも生き生きとした喜びを心に感じさせてもらい。そしてどれだけ、有り難いことを覚えたからというて、もうこれで良いということはない。限りなく求めて止まない求道の心を育てながら、信心を進めていく。そこには、合楽でおかげを頂いております。まだこれもなら、これで良いということはございません。限りなくおかげを頂いて、それをいよいよ、広く深く受けて行くことのためには、もっともっと広く深く信心を、いよいよ、より本当なものを目指して求道していかなければなりません。
心の中に感じる喜び。私は本当に、ずいぶん有り難い有り難い自分であるということを、思うておりましたけれども、こうして病気のおかげで、もう今までも気がづかなかった、もう本当に勿体無いことであったけれども、そういうところに何か、有り難いものを改めて感じさせて頂いて、どういう中にあっても本当に有り難い、お礼の申し上げれるような心の状態が段々本当な物になりつつあることを思います。
これが生涯続けられていくならば、合楽のごひれいは又、いよいよその油断の無い心をいよいよ豪華なおかげが約束されるであろうと思います。その内容として、梅の花の信心を忘れてはならん。柳の信心を疎かにしてはならない。いよいよそこを極めて行きたい。皆さんもご承知の通りのご理念、ご理念というが、ならご理念を知っておる人にもし語って頂いたら見事にご理念を解き明かすことが出来られるであろう。ほどにいうなら、詳しくなっておられると思うが、それを自分の血に肉にしていく、血に肉にしていって、又元に戻すのではなくて、それをいよいよ豊かな大きな物にして行くために、お育てを頂くことのために、私は油断のない信心。
自分の心を、自分の周辺を見れば、そこに気づかせて頂けるような、謙虚な心で、求めて止まない求道の心が日日のお参りの中に、どれほど培われていっておるか。又どれほどそれを頂いておるか。自分の求め心というものが、この頃、あっあの話はもう聞いたといったようなことで片付けてしまうようなことは無いだろうか。
どこの隅からでも吸収していかずにはやまんという、求道心を私は持ち続けて、いよいよ『梅の香りを桜に持たせ しだれ柳に咲かせた』るような、夢のようなと思われるおかげの世界に住みたいといよいよ思うのでございます。
どうぞ、よろしくお願いします。